お問い合わせ

ホーム > バイオグラフィー 〜 '76年「忘れられた夏」から '91年ユーラシア横断旅行まで

バイオグラフィー 〜 子供時代からデビュー当時まで

家で久し振りに写真の整理をした。
その写真のなかから、懐かしいもの、笑えるものを何枚か選んでみた。
思い出しながら、簡単なコメントを書いて添えてみた。
時が経つのは早いものです。
この次は、僕が旅先で写した写真も載せたいと思ってます。
                          南佳孝


76年SONYに移籍して「忘れられた夏」をリリースする。 これはその時のレコーディング風景。箱根のロックウェルというところで合宿状態で行った。 左から小原礼(B)、南、浜口茂外也(per)、林立夫(Dr)、鈴木茂(G)、佐藤博(P)という面々。写真は井出情児であったと思う。

78年2月初めてアメリカに行く。一人旅。ロス・アンジェルス、バークレー、ニューヨークという旅だった。お金があまり無くて、ヨコチン(写真左端、元ファニーカンパニーのベーシスト)の家に居候していた。場所はL.A.のノース・ポインセティアというところだった。その時にアルファ・レコードに在籍していたムッシュー(かまやつひろし氏)がレコーディングに来ていて、日本料理をご馳走になる。ぼくの隣は前のマネージャー新田美昭氏。

78年3月3日初めてニューヨークはマンハッタンの土を踏む。この時ニューヨークは異常な寒波でハドソン川を凍っているとかいっていたけれど、本当だったかな?JAZZやLATINのライブをよく聞きに行った。


78年"South of the Border"をリリースしたころのコンサートの模様。 ファンの女の子からハンカチを貰いかえそうとしたら、「持っていて」と言れ、悦にいっている南。

80年「モンタージュ」を出した頃のTV収録の一コマ。
マイクもないところで何をシャウトしてるのかね。写真はNaoto Ohkawa氏。「背中に哀愁を感じる、Mariには感じない」と彼のコメントが貰った写真の裏に書かれていた。Mariとは女優の藤真理子であったか?

多分80年の早稲田大学の学園祭での一コマだと思う。モダンなコスチュームに身を包み何故かサンバ・ホイッスルが首からぶらさがっているのが妙だね。

80年ツアーメンバー、スタッフ達とグアムで遊ぶ。この頃のテニスはただやっているという感じで、本格的にやりだしたのは86年頃かな。今もテニスは続けてます。

80年か81年頃のレコーディング風景。右端はMr.Tことプロデューサー高久光雄氏。後ろはシンセ・マニュピュレーターの松武秀樹さん。日本シンセサイザー協会(?)の会長。彼とはデビュー・アルバム「摩天楼のヒロイン」からのお付き合い。「4人目のY.M.O.」と呼ばれた彼は、その頃冨田勲さんのお弟子さんでした。

82年「セブンス・アベニュー・サウス」のレコーディングの為L.A.でニック・デカロ氏とアレンジ打ち合わせをしているところ。彼があんなに若く亡くなるとは本当に思ってもみなかった。おっとりしたいい奴だった。

そのレコーディングでニューヨークの地下鉄に乗って。初めてのニューヨークと違ってスタッフも沢山いて、楽しかったな。でも今と違って、その頃のマンハッタンの治安はヤバかった。

89年「東京物語」のニューヨーク・レコーディング。エバン・ルーリー(キーボード。ジョン・ルーリーの弟)のホームパーティーに招かれて。

閑話休題/撮影:南佳孝

89年初めてアジア圏に旅をする。これはインドはガンジス河の聖地ヴェナレス、一泊百円の安宿で。今まで泊まった数多くのホテルのなかで、ある意味でこんなにコンファタブルなホテルはなかった。人間落ちるところまで落ちれば、何も怖いものなどないということか。猿が窓からミカンを盗むは、夜の8時を過ぎると野犬の群が吠えたてて眠れないは、とにかく凄かった。今見ると、このホテルまるで牢獄だね。

フーマンチュー、ガンジス河を渡るの図。暑かった〜。

91年ナホトカーーイスタンブール 1万8千キロ ユーラシア横断旅行の一コマ。中国のどこか?の街で。毛沢東像の前でかすむ南。

中央アジア、タシケントのホテルにて。
その長旅では、多くの通訳の人にお世話になった。その中で一番優秀で面白かったのがロシア語の通訳ボロージャ氏だった。(右から2番目)彼がモスクワに帰るので送別をしているところ。
右端は現地で知り合った牧童頭、ではなく、その当時のぼくのマネージャー!松井君。こちらが線で旅しているところを、彼が日本から救援物資を持って点で会う、という離れ業を何度もこなしてくれた。
左端はSMAの藤田さん。(元チェリッシュのベーシスト)